昨日、金曜日の夕刻、仕事で大阪市消防局に行く。
ちょうど被災地への緊急消防援助隊(第8次派遣隊だという)が出発するところだった。
現場はおそらく大阪での日常的な生活からは考えられない状況であろう。
大阪での多少の喧噪や激論、ちょっとした事件、そんなこと。。取るに足らない。
そう直感されるくらいの緊張感が、出発の質素な儀典から感じられた。
いろんな想いがかけめぐる。
隊員の危険を知りつつ被災地に赴く覚悟
尋常ならざる高揚感を感じる。わずかばかりの見守るものにさえ伝播する。
この正義に裏打ちされた使命感があれば、
戦争でも死地に赴くことができそうだ。できるに違いない。
自分の犠牲を顧みず守るべきものを守る気概。
私にとっては家族だ。しかし自分だけ逃げることもあるのではないか?
職業倫理。
府民のために自分はもっとも危険な場所にたち続けることができるだろうか?
さて、闘うべき相手、敵、とはどんなものなのか?「敵対するもの」とは何か
助けるためには敵と戦わねばならない。
大阪の官庁街の居酒屋では甲論乙駁かまびすしいが、テレビやインターネットと言うスクリーンの前で評論化しているだけでは何もならない。彼らが一番くさしている東電や保安院政府やマスコミは当事者(少なくとも当事者の立ち位置に居る。立場であったり被災地との距離において。)である。
伝聞をもとにあるべきことを語ったり、当事者の不明を論難したり、今安全な土地からするべきことであろうか。
この消防車の行く先に何が待っているか、私は想像できた。
先発し被災地で活動している隊員の中に知人が居る。
彼も直視できないような光景の中で困難な救助活動に従事していることだろう。
彼の帰還は今月末になるそうだ。
被災地の安寧の回復と救援活動に従事している人の安全を祈りたい。
気分が沈んでしかたがないので月を見ることにした。
3月19日のこの月は一等明るい「supermoon」だそうだ。希望の光を見た気がした。