睡魔に襲われるLeo。
浪江町 900日
2013年8月29日。震災から900日を経た浪江町光景。
東北で復興はおろか復旧さえ進んでいないものはたくさんある。
鉄道。仮復旧と言う名前でバスになっていく。本数は増えるが速度は遅い。
商店街。閖上(ゆりあげ)さいかい市場などが頑張っているが、仮設である。仮設でもひとが頑張っていて、明るいのがまたやりきれない。
復興予算で認められるカキの養殖筏はFRPでつくって減価償却しないといけないらしい。
竹で造って朽ちるまで大事に使うのはいけないらしい。何が?
先日の水害で被害を受けた京都・嵐山は急速に綺麗になっていく。東北で比較的被害が少なかったと言う松島は
護岸沿いに整備された遊歩道の化粧タイルが剥がされてあちこちに積み上がられている。再開を諦めた店もあるようだ。
なぜに東北は阪神より苦労しなくてはいけないのか?
災害の規模や重さのせいにできるものではない、いや、規模が大きいほど早く手当しないといけないはずだ。
災害の規模や被災の程度にかかわらず、耐えて行きようとする人間の大きさはどこでも同じではないか。
麺を極める挑戦。
麺が好きである。特に干麺を茹でてめんつゆで食べるのにこだわっている。
しかし今日の昼は、困難な条件が揃ってしまった。
ちょうど食する分がそば、うどんとも同じ銘柄が揃わないのである。
2種類を混ぜて茹でるとゆで時間も違うし、特にうどんと蕎麦を一緒に茹でれば、
なぜか、おいしいものをあわせたのだから美味くなりそうなのものなのに、どうもいけない、
(やったことがあるのである。食感が違うから、別々に口に運びたいのだが、箸でつまみわけるのが大層困難である。)
かといって、2回に分けて茹でると、先に茹でた方がのびてしまう。
蕎麦のゆで汁にうどんがつかるのは許すとして(気分、色が黒くなるような気がする。)
だいたい、水も無駄にしたくない。経済的に省力的に美味をあじわい、半端に残った麺をきれいに片付けるには。。
某○○製麺所チェーンでも蕎麦とうどんをおなじ釜で茹でている。
よし、と写真の方法を試みることに。
沸き立ったひとつの鍋にゆで時間の長い方を先に入れる。
短い方を小さなざるの内側に囲い込んで2種類茹でるのである。
かしこいやろー。
しかし、ざるの内側のうどんには沸騰したお湯が行きわたりにくい、混ぜたり蕗こぼしたり悪戦苦闘である。
鍋のそこに沈まざるを得ないそばが見えないので心配だ。
流水で洗う時間も予想外にかかって差分の30秒が過ぎそうに。。
うう、結局、おいしくいただくことには成功したものの、こんなしんどい料理は二度としないことを誓った。
人類の進歩には時に労多くして得るものがほとんどないような努力も必要なのである。(麺類というべきか。)
第33回大阪府庁写真部展
第33回大阪府庁写真部展
「被災地のいま」と「れお」を出展。
今日は14時まで会場におります!
■ピルゼンギャラリー 心斎橋大丸東
■2013年9月12日木曜から17日火曜
■10時から18時(最終日16時まで)
閖上の復興は。
ゆりあげ、と読むのだと知った。
関西のひとは、今回同行したひとはほとんど知らないようだった。
閖上漁港での津波の高さは8.5m
700名以上の方が犠牲になる。
鳴らなかった防災無線。
津波は過酷だ。
が、今の閖上は。
津波から900日を超えて元の街が戻らない。
まだ発見されていない方が40名以上おられるとのこと。
仏教関係のボランティアの方が側溝などのがれきを分別していた。
遺品などがあるかも知れないのだそうだ。
蛇足だが、被災地の写真は私の属するクラブ展で紹介している。
Webでは小さな写真だけど、大きなプリントで見ていただけたらまた違った印象があるかも知れない。
(03)第33回大阪府庁写真部展
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http://homepage3.nifty.com/piruzen/
■ピルゼンギャラリー 心斎橋大丸東
■2013年9月12日木曜日から17日火曜日
■10時から18時(初日は13時から 最終日は16時まで)
2013夏。被災地を訪れて その2
何よりも驚いたのが気仙沼の船である。
しかし、同じくらい驚いたのがまわりに拡が夏草ばかりの荒涼たる風景。
ときたまボランティアツアー(私のような)や見学に来るクルマが目にはいる。
街並みはともかく、船は解体し撤去される予定と聞く。
しかし、残すべきと言う声も多いそうだ。
ここは気仙沼でも大きな被害を受けた鹿折と言うまちである。
自らも被災者であるバスガイドさんの話が印象に残る。
真顔で「あの船がなくなると鹿折には誰も来てくれなくなる」と心配するお年寄りが居るのだと言う。
動機は物見遊山でもと言うことか・鹿折のことを気にかけて訪ねてくれる人が居なくなると
切ないのだろう。
被災から900日以上経つというのに、首相からは「復興もだいぶ進んでいるようだ」と言われ
どこを見てきているんだろうか?
気仙沼の写真 続く。
2013夏。被災地を訪れて その1
結局、物理的には何も復旧していない。復興なんて想像すら出来ない。
救いは、被災地で先頭を切って動いているバイタリティあふれるひとびとである。
人的、社会的には希望が見えるのだが、物理的経済的な生活基盤が全然復旧していない。
一方で復興を加速するから、と言って高速道路が急速に建設されている。
美しい気仙沼大島。太平洋と湾内が360度を囲んでいる。
牡蠣養殖を営む若者は、牡蠣いかだの再生費用の調達に愚痴をこぼしながらもずしりと重たい
牡蠣を手に
希望を語ってくれた。
フェリーからの眺望。ウミネコ。ドリーム。
被災地のひとも被災地を知るひともこころは前を向いている。
気仙沼大島。津波が太平洋と湾内から島を横断した。
建物は仮設のものが建ちはじめた。が、消波ブロックの作製が軌道に乗り始めたばかりで船着き場も沈下したままである。
気仙沼と大島の被災状況。
まだ傷跡が残ったまま。しかし、お魚市場、民宿、仮設の商店街など、たくましい部分がある。ここの人間はがんばっている。
しかし東京の人達の復興の取組はどうなのだろうか。
続く。
東日本大震災の被災地を訪問
NPO法人大阪府高齢者大学校の有志の面々と被災地の今を見てきました。
2013年8月27日 仙台空港・閖上(ゆりあげ)地区
28日 気仙沼・大島・石巻
29日 松島を経て相馬・南相馬・浪江町
宮城を中心に災害後2年を経た現状と復興の有様を見学し、被災者やボランティアのお話しを伺い交流しました。
福島県の浪江町では町の職員の方に帰宅困難区域を案内していただいた。
常磐線では未だに不通区間がある。
浪江町は人が長時間滞在出来ないため、全く復興が少なく、地震で壊れた家はそのまま、漁船や廃車も田畑に残っている。
が、閖上も気仙沼も石巻も、がれきがほぼ片付いた(なくなってはいない。)ものの、津波に流された家の基礎が残り、電柱が立ちつくし夏草が生い茂る荒涼とした風景が拡がっていた。 双葉町の一次避難所、埼玉県加須市の旧騎西高避難所には7月19日現在107人が暮らす。
阪神淡路大震災からの復興はこんなに遅くはなかったのでは?と調べてみると(wikipedia他から抜粋引用)、次のような状況である。
JR東海道線 地震発生から74日後の4月1日に最後の不通区間である灘駅 – 住吉駅間を復旧
山陽新幹線 新大阪駅と姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の4月8日に不通区間を解消
阪急電鉄: (地震発生から146日後の)6月12日
山陽電気鉄道 : (152日後の)6月18日
神戸電鉄 : (156日後の)6月22日、全線が復旧。
阪神電気鉄道 : (160日後の)6月26日
埠頭・コンテナバースが復旧1997年(平成9年)3月31日(2年後)
避難所 1995年1月23日1153カ所 避難者数316678名 1995年7月20日災害救助法に基づく避難所廃止
応急仮設住宅に入居出来ない6672名を対象に1997年3月31日まで12カ所の待機所を運営
仮設住宅 ピーク時約46000世帯。2000年1月14日に解消
2年6ヶ月後の東日本の現状をどう見るか。
原発事故があったから。災害の規模が大きかったから。大阪のような都心ではないから。
そこで生きている人には言い訳にならないだろう。
被災したひとたちは「普通に暮らしたい」、それ以上は何も願っていない。それが良く解った。解ったが進んでいない。こんな当たり前な願いが2年以上放置されてような感がある。
では何をなすべきか、引き続き考え、出来ることはやっていくことにする。
(写真は閖上地区)
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